戦争体験談

最年少志願兵

昭和十八年、三年生の頃より毎日の戦勝報道のわりには日常生活すべてにわたって窮屈になってきた。
勤労動員として、小松の海軍飛行場建設や、小松製作所粟津工場で弾丸作り、秋には小松近郊農家(出征留守家庭)へ稲刈り手伝いなど行った。二学期頃より少年飛行兵や予科練の入隊者があった。
当時の志願兵はみんな飛行兵であり、視力両眼共1.5以上必要との事であり、軽度の近視である私には全く無縁のものと思っていた。
戦況悪化した十月には学生の徴兵猶予が停止された。いわゆる学徒出陣である。同時に中等教育を四年制にするよう決定された。
年明けて、三年の三学期が始まった頃、二月生まれの私はまだ十四才だったが、担任教師より軍の志願をすすめられた。私は近眼であることを告げると、先に調査してあったのか、「今度陸軍に特別幹部候補生というのができて、お前程度の近眼は大丈夫だから」と、いろいろと資格や昇進等を説明された。
私は来年には四年で繰り上げ卒業だし、お国の為とかの悲壮感とは別に何か追い立てられるような気持ちで、「ハイ行きます」とこたえ、願書には父のハンコが必要なのでもらいにいった。

 

父は支那事変の時召集された陸軍軍曹であり、入隊には理解があると思っていたが、当時の戦局の重大さを認識していたのか、「うらら召集された時は、年いっていたし戦地へ行かんとすんだが、お前ら若者は訓練すむとすぐ戦地送りや。生きてかえれるかわからん所へ、徴兵検査ならしかたないけど志願してまで行くこといらん」と言って、願書の後見人の欄に署名捺印をしてくれなかった。
しかし、こんな話は家では言っていても外ではできない。結局学校に呼び出され、元陸軍中尉の担任教師に説得され願書を出してきたそうです。
尽忠報国、滅私奉公と教育され(洗脳され)、十四才で分別の浅かった私と、支那事変の時は三十八才で、老母、妻、私等五人の子どもを残し、病弱な弟(当時三十一才・父金沢在隊中に死亡)に後事を託して召集された父との、戦争に対する考え方の相違は当然であろう。
父はその時、「こんな子どもまで動員するようでは日本も終わりだ」と思ったそうです。

 

 

二月中頃、金沢にて採用検査があった。
三月三十一日、一緒に検査を受けた同町の作○良○さんが翌四月一日入隊するのを見送った。
また同級生達もたくさん四月一日付けで入隊した。
私はやはり近眼で不合格だったのだろうと思って、四年生の新学期の準備をしたが、翌日四月二日に入隊通知が来た。
入隊日四月二十日静岡県磐田町の第一航空情報聯(れん)隊通称中部一二九部隊である。
磐田町は浜松より東海道線二駅東京寄りなので、現在では短時間で行けるが、当時随分時間がかかったのか前日十九日の夜汽車であった。
子どもの頃、出征兵士を区民総出で本寺井駅まで見送ったが、その頃は軍の機密上とかで派手な見送りは禁止されていた。夜八時頃、家族や近所の人に見送られ自転車にて小松駅へと向かう。

 

父と、父の従兄(先代敬一氏)に付き添われ小松駅に着く。駅前広場にて一緒に入隊する粟津の小林○君と、級友達の校歌や応援歌の大合唱の盛大な見送りを受け、出発翌日入隊した。
今にして思えばその年三月には女学校を卒業したばかりの姉が三重県鈴鹿の軍需工場へ女子挺身隊として徴用されており、今また長男の私が若年の身で志願入隊する事に、父母の悲しい気持など少しも思いやれなかった。
思いやれないまだ幼稚な少年だったのである。