敵機グラマンの洗礼
昭和二十年五月、私は台中東方十キロ程のエン里(えんり)という小さな田舎町にある気象観測所(班長以下八名)に通信兵として勤務していた。第十野戦部隊気象隊エン里分隊である。
気象情報を送信するだけだ。受信機があれば、ラジオがわりとなり、また米軍放送も聴けるのだが、もうこの頃には米軍は沖縄に上陸し、本土も連日爆撃されていることなど私たちは全く知らなかった。それでも時々、警報のサイレンが鳴る。大都市の台中か北方の新竹へ来たのだろうか。警報の時は、防空壕へ入るよう命じられていた。宿舎近くに小川があり、コンクリートの橋の下へ入るのだ。
班長は、「グラマンは、爆弾投下よりも機銃掃射が主だから、このほうが最も安全だ」と話していた。
五月中旬頃、ある日の昼すぎに、またいつものようにサイレンが鳴った。班長が、「おい、皆避難だ」と言ってきた。
私はちょうどトイレにいた。大便なのだ。トイレの中で「後から行きます」と叫んだ。どうせ空襲にはならないだろうと、ゆっくりとトイレを出る。
その時だ。まさに晴天の霹靂だ。低空で襲ってきた飛行機の爆音、銃撃音、薬きょうの落下音等が
一緒に轟音となって襲って来た。話に聞いていた急降下の機銃掃射だ。突然である。轟音を避けるため、頭をかかえてうずくまるだけだった。
一機だけなのか、静かになった。気がついてみると付近に板屑が散乱し、ホコリでもうもうとしている。上を見上げると、平屋で天井もないスレート屋根なので青空が見える穴があいていた。
しばらくして班長達が帰って来た。
「大丈夫か。グラマンだぞ、オイ屋根に穴があいているぞ。弾丸がないか探せ」
と班長の指示で、兵達が探すと、押入れの中に見つかった。私のうずくまっていた所より一メートルくらいだ。親指くらいのずんぐりとしたやつだ。一発まともに受けたら即死だ。
「○○(私の名前)命びろいだぜ」と班長がその弾丸をくれた。
もう兵達は喧々囂々だ。「ちょうどこの家の上だったぜ」「空襲警報にならないのに」「こんな田舎の軍事施設のない所に」「いやこの上にアンテナがあるじゃないか」…と、いろいろ詮議している。
(注:当時の送信アンテナは高い所に張られていて、天気の良い日などキラキラと輝いてかなり目立った)
結局、班長が結論を出した。
「米軍は、ここから電波が出ているので一度おどしてやろうと思ってきたのだろう。警報は電波探知機のある台中より出しているので、あのグラマンは台中へ行こうとこちらへ来たので空襲警報にはならなかったのだ」
との話であった。
以後、警報のたびにすぐ避難するように心がけていたが、五月末に花蓮港へ転局(転勤)するまで、グラマンの来襲はなかった。