戦争体験談

第八飛行師団へ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草むす屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

 

 

この詩は、昭和十九年十二月三日、昭南島(シンガポール)と比島(フィリピン)へ派遣される同期兵五十余名を送る時、歌った詩である。
この昭南島行きの人達の大半は詩のとおり水漬く屍となってしまった。

 

この南方派遣を送り出した後、内地勤務や支那大陸派遣の人達が続々と出て行き、十二月中頃には広い兵舎の中に二十名程になった。
訓練もなく朝夕の点呼だけで、ただ漫然と過ごしていた。
正月を過ぎ昭和二十年一月十九日、やっと転局命令だ。台湾第八飛行師団である。戦後の戦友会の調査では、私達は当初ニューギニア島派遣で待機していたが派遣困難となり、台湾へと変更になったそうであった。
逢來島台湾、まだ高砂族の蛮人はいるのだろうか。もう敗色濃厚となり、空も海も米軍に制圧され、危険な状況なのを何も知らぬまだ十五・六才と若い私達には、悲壮感などまったく無く、喜び勇んで水戸を出発した。

 

二月六日未明、水戸を出発。当時私達は上等兵で階級章の横に幹部候補生である印の座金がついていた。列車の中で誰かが
「こんな座金をつけていると現役兵になめられるから外そう」
と言いだし座金を外し、列車の窓から草むらに投げ捨てた。

 

七日朝、門司港に着く。宿舎に着き荷物をおろし午後は退船訓練のため港の倉庫へ行く。係官の説明では、敵の襲撃で船が沈む時、船の近くにいると渦に巻き込まれるので、海面までは高くても恐がらずになるべく早く飛び込み船から離れる訓練なのだそうである。
「退船」の号令と共に、救命胴衣をつけ、鉄製の梯子を上って高さ五メートルくらいの台上へ垂直に立った。その上から海を想定したマットの上へ飛び降りるのだ。

 

軍歌で、
ゴーチンゴーチンーガイカガアガリヤ♪
(轟沈轟沈凱歌が挙がりゃ )
と歌ってきたのに、いつの間にかこちらが轟沈されるのに変わったのだ。

 

翌九日も退船訓練に行く途中、大八車を引く三名の米兵捕虜にあう。ヒョロヒョロと背が高く、ボタンもポケットもないヨレヨレの服だ。後から陸軍上等兵が一人、竹の棒を持ち牛を追うようにしてついて行く。哀れな様だ。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を想う。

 

 

 

 

轟沈

 

作詞:米山忠雄
作曲:江口夜詩

 

轟沈〈軍歌・戦時歌謡〉