戦争体験談

水戸航空通信学校

昭和十九年七月三十日、磐田での新兵訓練が終わり、訓練兵四百名のうち約半数の二百余名(大正十三、十四年生まれの年長組)は中国へと転局した。これは大陸での精兵は南方戦線へと送り手薄となった所を駐留しながら訓練するとのことであった。

 

昭和生まれの年少組約二百名は、茨城県水戸の航空通信学校へと転局した。嫌な古兵達と別れ、八月一日入校した。
水戸での兵舎は、磐田とだいたい同じ構造であったが、一ヶ班二十五名程で班内には古兵もおらず同期生ばかりでゆったりとしていた。
班長は少年飛行兵上がりの若い伍長で、隣の小部屋にいた。古兵もいないので、班内を取り仕切る磐田での班付兵長の役目を、「君達は将来班長になるのだから」と一人ずつ交替ですることになった。今までの新兵ではなく下士官としての教育である。
訓練は通常午前中は屋内にて通信学理の講義、無線機の操作、通信技術等があり、午後は体力増強のための体操であった。
磐田でのように軍事教練ではなく、軍服以外に支給されている白い体操服、帽子、体操靴(足首まで包まれる)等の服装で飛行場周辺や、たまには観光地となっている千波湖周辺までのマラソン等であった。

 

十月に上等兵に進級した。体操服は上下つなぎの作業服へと変わった。情報無線の実戦訓練として七、八名の組で、無線機一式を持ち練兵場の端まで行き無線機を設置し、校舎の本部との交信の速さを競うのである。現在は無線の発達は著しく、軽量化しているが、当時のは送信、受信、発電機、それぞれ三十キロ位あり、それをかついで歩くのだからまさに心臓破りの訓練であった。
十一月には最後の仕上げ訓練として、三日間の野外訓練であった。

 

一回目は水戸より三十キロ程の石同町付近、二回目は百キロ程離れた我孫子町の山まで行き、校舎の本部と交信した。
この実地訓練を終え、十一月二十六日終業式、
「右者本校召集下士官学生(無線)ノ課程ヲ修業セシ事ヲ証*2ス」
との修業証書をもらい情報通信兵としての訓練が終了したのである。

 

 

*2 旧字体