戦争体験談

花蓮港での軍務

花蓮港南飛行場、第三飛行場中隊所属である宿舎は飛行場に隣接した内地人集落、草分部落にあった。農家の一軒家を借りたものだが、この家の持主は、農地を付近の木島人に小作させ、町の会社に勤めているそうであった。

 

正式名、第十野戦気象隊、花蓮港小隊である。隊長芳賀少尉、次に河野見習士官、川島伍長、大橋伍長。この人は台北出張の際、グラマンに足を撃たれて入院していて復員するまで病院住まいであった。

 

次に兵長の私で、下に上等兵二名、一等兵四名、計七名が通信兵で、送受信所を交替で勤務する。その他に四名の二等兵は気象観測兵だ。
送信所は草分集落の端のほうの林の中にあり、コンクリートの壕(ごう)で、南側に木が繁っていて中は涼しいが、受信所は飛行場の端の地下防空壕の中にある。他の通信所もあり、狭い中に無線機より出る熱も加わり、とても蒸し暑かった。それでも受信所の楽しみは、受信時間外は、ラジオや米軍のデマ放送(注:これが真実のことであった)を聴いたり、と結構楽しかった。
デマ放送を聴くのは、前後に流される女性歌手の流行歌がめあてなのだ。沖縄では過酷な戦が始まっており、本土の都市では連日爆撃にさらされているのに、まったく呑気なものだった。

 

 

私は通信所勤務以外に、度々台北本部へ出張(主に書類運び)を命じられた。先任の兵達の話では、出張は事務所にいる川島伍長の任務なのだが、以前大橋伍長が出張の際、足を負傷したのを恐れて行かないとの話だ。

 

台湾山脈は東側海岸まで迫って、花蓮港よりスオウまで鉄道がない。その間はバスだが、グラマンに襲われたときはバスより降りて、西側の山へ逃げこむのだが、西側が崖で逃げる所がないときはバスの下へもぐりこむのだ。が、大橋伍長は逃げるのが遅れて足を撃たれたそうだ。隊長より、バスよりも軍属の船便を利用するよう指示された。

 

出張命令を受けると、八キロほどある港まで歩いて行き(自転車はない)、軍属に貨物船に便乗を頼んでくる。夕食後、弁当二食分(塩だけのニギリ飯、副食は腐敗するので持たない)を持ち、夜十時頃出港、翌朝スオウに着く。列車にて台北、本部での用事をすませて、帰りのスオウ港での出港を待つ。運よく船便があればよいが、無いときは三日がかりだ。

 

この頃、私は一文無しだった。内地の磐田の一二九部隊のときは、一ヶ月七円程、水戸通信学校のときには九円程支給されていたが、訓練を終えた十二月より各地を転々と異動しているので、約半年間一円も支給それていなかった。
駅前の露店にバナナなど売っているが、金がない。空腹のままでの野宿は何回もあった。七月末、ようやく兵長として十一円あまり支給されたが、もう終戦へと近づいていて出張もなくなった。