戦争体験談

虱と共生の隔離生活

桃園の宿舎は、桃園飛行場を建設する時、労働者が住んでいたバラックの粗末な建物だった。
幅五メートル、長さ十五メートル程、中央に幅一メートル程の土間の通路で、両側が高さ二十センチ程の板張りだ。馬小屋を敷ワラの代わりに板張りにした程度だ。窓も電燈もなく夜は真っ暗だ。それでも輸送船の蚕棚のような船室を思えば極楽である。

 

水戸を発ってから十五日間、一度も風呂に入らず着替えもしていないので体がむず痒い。調べてみると虱(しらみ)の大群だ。それからは、毎日勤務もないし、外で日光浴をかねて虱取りが日課となった。三ミリから大きいのは六ミリもある。白い色だが、吸った血が真ん中に黒くなっているので簡単に見つけられる。縫い目にたくさん産み付けられた卵を全部とっても、翌日また同じ程いる。すごい繁殖力だ。バラックの小屋にも巣くっているのだろう。消毒薬もないのでお手上げだ。

 

三月中旬に検便と血液検査をする。検便は基隆でのように、肛門にガラスの細い棒を突き入れ採取されるので簡単だが、採血は大変だ。水戸を発ってから貧しい食事と、虱に吸われ痩せて血管が浮き上がっていて、現在の熟練した看護師さんなら簡単に採血できるのだが、衛生兵は荒っぽく何度も注射針を突き刺すのだ。彼の衛生兵は十五年入隊の古参兵だが、戦況悪化のため満期除隊もかなわず、その上継続の補充がないので万年上等兵なのだ。十八年入隊で乙幹の伍長や軍曹などは後輩扱いだ。    
ましてや同じ上等兵でも、私達若い志願兵は新兵扱いだ。「軍隊はメンコの数だ」と、一二九部隊にいた頃古兵が怒鳴っていたのを思い出す。(注・下級兵は表向きは階級にて統制されているが、裏では勤務年数の永い古兵が威張っている)
この検査の結果、伝染病の疑いが晴れ、それぞれの転属先へ行く。

 

私達荒井軍曹以下十五名の師団司令部付が第十野戦気象隊と変更になり、三月二十四日、台湾各地へ分散して転属した。
私は同僚の小林上等兵と、台中東方十キロ程のエン里という小さな町の分隊へ行く。
隊長の山口伍長は気さくな人であった。転属の申告をすると、

 

「おー来たか。お前ら虱持っているだろう。退治してやるから衣服を全部その中へ入れろ!」

 

と指差したのは、屋外に設置されたドラム缶の風呂だ。

 

言われるまま、着ていた衣服はフンドシまでと背負袋の着替えも皆入れ、素っ裸に上衣だけ虱のいないのを確かめてから着ていた。
先任の兵達が煮沸消毒をして干してくれた。おかげで長い間苦しめられていた虱も全滅した。先任の彼等も輸送船の蚕棚から虱をもらってきた経験者だったのである。