戦争体験談

訣別の帰省休暇

水戸通信学校にて訓練を終え、十一月二十六日午前修業式、午後突然、同期兵二百名のうち八十名あまりの者に三泊四日の休暇が許可された。全員でないのは南方の最前線へ派遣される者だけだったのである。
私達同期兵は、関東と中部地方出身で、北陸は最も遠い所であった。同じ班にいた富山の古市君と一刻も早くと、水戸駅までは公道を通らず畑の中の農道を急ぐ。常磐線で上野駅、北陸行き夜行列車に乗ったのは六名であった。同じ中隊の粟津の小林君、松任の倉君もおらず金沢以南は私一人だった。小林君は台湾、倉君は支那、私は最終的に台湾へ派遣されたが、この時点ではより南方の最前線要員だったのだ。
二十七日早朝家へ着く。ちょうど玄関の戸を開け父が出てきた。私は思わず立ち止まり、もうすっかり習慣となっている挙手の敬礼をした。
「トート、休暇で帰ってきた」
「ほー、いつまでだ」
「二十九日午後五時までに帰らんとならん」
父は急いで家へ入り、
「正幸が休暇できたぞ」
と声をかける。
私は玄関の上がり框に腰をかけ巻脚絆を解いていると、弟妹達が、
「あんちゃんだ」
と呼んでとんできた。母も祖母も出てきた。
入隊して八ヶ月、十五才で伸び盛りなのと、軍服でたくましく見えるのか祖母が「大きくなったな」と驚いていた。
その日は家でゆっくりくつろぐ。翌二十八日、父に、
「こんな時に外泊休暇は前線へ送られるのだ。入隊の時、餞別をもらった親類へ挨拶に行って来い」
と言われ親類を一回りする。
帰宅後、寺井の写真屋を呼び、玄関前で写真を撮る。この写真は翌年戦争が終わって近所の青年達が帰って来るのに、最も若い私が帰らず生死もわからなかったので、写真を床の間に飾り毎日陰膳を供えて無事を祈っていたそうであった。
三泊だが家では一泊で、きょうの夜行で帰らないと帰営時間に間に合わない。金沢や富山の連中と列車の打ち合わせをしてこなかったのを悔やむ。
鈍行に乗車、午後一時頃帰営する。午後四時頃私達の帰るのを待っていたかのように全員講堂に集められた。そこで昭南島と比島へ派遣の氏名が発表された。
この時、悪化した戦局を知らぬ若い私達は、この人達の大半が水漬く屍となるとは思いもよらず、遠い異国へ派遣されるのを現在の海外旅行のようにうらやましく思ったのであった。