戦争体験談

軍国少年の頃

十五才にして元服出陣は古い時代のしきたりですが、私は丁度十五才になったばかりの時、当時創設された陸軍特別幹部候補生として入隊しました。
募集資格は年令昭和四年三月末日迄に生まれし者、亦学力中等学校三学年修了者もしくは、十九年三月にて終了見込みの者となっており、資格最低限であった。
志願兵となった動機を話すには、当時の国内情勢などを思い出して述べます。

 

 

私の生まれたのは昭和四年二月、その頃より既に我が国は軍国主義的な政策を国内外に推し進めていた。
主なものとして、昭和六年満州事変、十二年支那事変、十五年日独伊三国同盟、そしてついに十六年十二月八日の米英等との開戦等である。
軍国少年としての教育も受けた私達にはやがては戦禍に巻き込まれる事も知らず、緒戦の勝利に歓喜したものだった。

 

米英との開戦の十二月八日には、私は中学一年生で、全校生徒がみぞれ降る中を小松のお諏訪さんへ必勝祈願の参拝に行ったのを覚えている。当時の中学生はカーキ色(国防色と言った)の服に戦闘帽、巻脚絆で、学校には軍より派遣された軍人、配局将校がいて、軍事教練が正課となっていた。

 

十七年二月頃より軍事教練の時間が多くなり、また戦意昂揚のための映画会や陸軍軍人の講演会などがあった。学校の内に七、八名のラッパ手がいて、時々校外へ行事に出た。市内区ではラッパ手が先頭で進軍ラッパによって行進し、市外区では、軍歌(若鷲の歌、加藤隼戦闘隊など)を歌ってである。現今に比すれば、当時の中学校はまさに軍隊予備校のようであった。

 

 

当時の国内状勢を簡潔にあらわす次の用語がある。

 

国民精神総動員、月月火水木金金、ほしがりません勝つまでは、撃ちて止まん、鬼畜米英等である。
開戦以来、全く破竹の勢いで勝利を挙げていた我が帝国陸海軍も十八年に入り大本営発表に、転進、玉砕の言葉が用いられるようになった。転進は退却、玉砕とは全滅の事であったが、当時神国日本は必勝との教育を受けた私達には、このまやかしの報道になんの疑問も感じなかったのである。